戦国期貿易港として栄えた堺は、よく「東洋のベニス」と言われます。ザビエルが堺に来てから11年後同じくイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラの報告書に「ベニスの如く執政官によりて治めらる」とあったことからこのような呼称ができたようです。一時期堺にも住んだことのあるヴィレラは翌年にも堺の街をこう報告しています。
『日本全国において、この堺の市ほど安全な場所はなく、他の国々にどれだけ騒乱が起きようとも、当地においては皆無である。敗者も勝者も当市に宿れば皆平和に暮らし、互いによく和合して何びとも他者に害を加えない。街路では決して騒ぎが起こらず、むしろ諸人は街路で互いに大いに親愛の情と礼節をもって話すので、敵味方の区別がつかない。これは、すべての街路に門と門番がいて、いかなる紛争に際しても門を閉じ、騒ぎを起こす者は犯人もその他の(関係)者も捕らわれて皆罰せられることによるのかも知れない。だか、もし敵同士が市の囲いの外にいる場合は全く別の方法で対するのであり、たとえ一投石を超えぬ距離であっても、彼らは相手を殺そうとする。市自体がいとも強固であり、その西側は海に、また東側は常に満々と水をたたえる深い堀によって囲まれている。』
1562年ガスパル・ヴィレラ師が日本の堺の市より、イエズス会の司祭および修道士にしたためた書簡
上の図は、ヴィレラがいた頃の堺を上からのぞいた鳥瞰図です。外濠は、二重になっていて、濠と濠の間に、背の高い矢倉がいくつも建てられていて見張りと外敵への攻撃用になっています。街への出入りは限られた橋を通らなければならなかったようです。街を囲む環濠だけでなく、街中にも運河が何本も走っています。大きな荷は、小船を使って街中の店まで運んでいたようです。港の付近には、たくさんの蔵が建ち並んでいて、輸入品や西国から運ばれてきた荷を保管していたのでしょう。白い道は、縦横に通っていて、現在の堺市街のように、碁盤の目のようにはなっていません。1615年、大坂夏の陣の前に大坂方に放火され全焼した堺の街の上に、江戸幕府が新たに土を盛り、町割りをし直したのです。
ヴィレラの頃の堺は、今は土の中に埋まっています。堺の旧市街地で新たにビルや道路工事があると、下の地層を発掘して当時の街の調査を続けています。その結果を基にして上の鳥瞰図にしたのです。
同じ調査から復元された街の模型も見てみましょう。
堺の街の一角が復元されています。細かい年代設定がされていますが、これは、織田信長が上洛し、堺に2万貫の矢銭を要求してきた時を想定しています。街の危機に、木戸に走り込もうとする人形まで置かれています。屋根は、全て板葺きで、屋根の押さえとして石が置かれています。商家や民家が瓦葺になっていくのは、17世紀に入る頃になるようです。もっと模型に接近してみます。
唐物屋の前を黒いマントにひだ襟(ラフ)を付けた南蛮人が歩いています。通りに沿って、店の語源となつた見世棚(みせだな)が並べられ、輸入品の壺などが置かれています。店の奥は、中庭を挟んで井戸と漆喰ではなく、土壁の蔵が建っています。基礎部分は、塼(せん 焼成レンガ)を敷き詰め地面より少し高くして、ねずみなどの侵入や風雨の被害から守る構造になっています。
現代から見ると決して豪華な街並みとは思えませんが、戦乱に明け暮れていた地方の人から見ると、まばゆく輝く街であったのでしょう。


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