戦国堺の街

戦国堺の街

50回を振り返る 「黄金の日々」の堺の街とは 

『探求 黄金の日々堺』への投稿も50回を迎えました。2024年の1月にスタートして1年11カ月、最初4カ月は月に3回投稿と頑張りましたが、それ以降は月2回ペースで続けてきました。それらを振り返り、「黄金の日日」の堺はどんな街だったのか改めて...
堺をめぐる人々

41 医書大全と戦国期の医療

始めの写真は、「医書大全」という1518年(北条早雲が亡くなる前年)に堺で翻刻(古文書・古典籍・石碑などに残された古い時代の文字を読み取り、活字化すること)された医書です。翻刻したのは阿佐井野宗端という堺の商人です。婦人科にも精通していたと...
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40 蘭奢待と会合衆

最初の写真、鳥の死骸のような物は、大阪歴史博物館で開催されている(8月24日まで)「正倉院 THE SHOW」で展示されていた天下の名香と称えられる蘭奢待のレプリカです。この展覧会ではその香り(破片を焚いた香り)を科学的に合成した香りを嗅ぐ...
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38 開口(あぐち)神社と菅原神社

堺には昔からお寺がたくさんあります。(参照12堺の富はどこへ行った)それに比べ神社は数えるほどしかありません。大坂夏の陣で街の大部分が焼け、再建された後の調査ですが、17世紀中ごろお寺は186あったと記されています。(堺鑑・当時の人口5万人...
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37 港の変遷 旧堺港の整備に寄せて

上の写真は旧堺港、平日の昼下がり、向かいの岸壁には白いクルーザーやヨットが係留されていますが、湾内は静寂に包まれていました。望遠鏡を持つ呂宋(るそん)助左衛門の像と小さな湾を隔てて16メートルの台座の上に立つ乙姫像がただ静かな海面を見下ろし...
戦国堺の街

33「黄金の日々」に至るまで 3  琉球貿易と三味線

遣明船が帰ってきた際の堺の街の熱狂に関して以前触れました(29「黄金の日々」に至るまで1)が、貿易港としての堺の発展に大きく影響したのは、明との貿易だけではありません。琉球との通商も大きなウエイトを占めました。10年に1度程度しか受け付けら...
戦国堺の街

30 環濠都市をめぐる

戦国堺は三方を濠で囲まれていました。(西側は海)幅10m深さ3mもあった部分も発掘調査で出てきています。部分的には二重の濠になった部分もあったそうです。上部の写真は、1615年大坂夏の陣の前哨戦で全焼した堺の街を復興させる際改めて掘られた(...
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29 「黄金の日々」に至るまで 1

城山三郎の小説「黄金の日々」(1978年NHK大河ドラマの原作)では堺が信長の軍勢に囲まれた1568年から大坂夏の陣の前に街が焼かれた1615年の47年間が舞台となっています。信長・秀吉・家康という時代の支配者に自由という街の鎧を脱がされて...
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23 自然災害と戦国堺

海恋し潮の遠鳴りかぞへつつ 少女(おとめ)となりし父母の家 上の短歌を詠んだのは堺出身の与謝野晶子です。与謝野晶子の実家(和菓子屋)は、大道沿いの甲斐町にありました。埋め立てで海が遠のいた今では望むべきもありませんが、与謝野晶子の少女の頃は...
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22 環濠堺の地名から 2 住んでいた人を想う 

戎之町(えびすのちょう) 環濠堺の真ん中を東西に分ける大小路の北側に戎之町はあります。戎様の石像が町名の由来と言われています。豊臣秀吉の頃ここに住んでいたと言われているのが南蛮貿易で財をなしたという納屋(呂宋 るそん)助左衛門です。1978...